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キプロスの歴史

キプロスの文明は11000年前に始まりました。以下はキプロス留学予定の方々がキプロスを理解するのに役立つキプロス島の11000年の歴史です。
 
紀元前9000~3900年 新石器時代
島に文明が現れはじめ、島最古の居住地の石造りの遺跡はこの時期にまでさかのぼります。 

 

紀元前3900~750年 オリエント諸国支配時代
石器時代から青銅器時代、 幾何学時代、アルカイック古典時代、 ヘレニズム時代へ移行。

 

中東、エジプトとの貿易が始まりました。島の文明が繁栄し、キプロスは東地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となりました。
 
島の繁栄が続き征服者達を引き付け始めました。キプロスは、ヒッタイト、アッシリア、エジプト、ペルシアといったオリエント諸国の支配を受けました。
紀元前1400年以降ギリシャからの商人達が到着し、彼らがギリシャ語、宗教、習慣が広がっていきキプロスでの力を確立し、キプロスで最初の都市を確立しました。

 

紀元前750~30年 ギリシャ時代
アレキサンダー大王の到着。キプロスは彼の帝国の一部となりました。
キプロスは当時の2大商業都市であったアテネとアレキサンドリアの間の中間貿易港として発展しました。

 

紀元前30年~西暦330年 ローマ時代
ローマ人到着。島はローマ帝国の支配下となりました。
 
キリストの12使徒であるパウロと、宣教のパートナーであるバルナバがキプロスでキリスト教を確立しました。

 

西暦330~1191年 ビサンティン時代
ローマ帝国が東西に分裂後、キプロスは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の管轄下となりました。

 

西暦1192~1489年 フランク王国 時代
1191年十字軍遠征途上、キプロス島沖を航行していた英国王率いる船団の一部が、キプロス島に漂着し、捕虜とされてしました。これに対し英国王リチャード1世がキプロスを攻め落とし、以後キプロスの領有権は英国王に帰することになりました。
 
それにより、キプロス島はギリシャ正教会からカトリック教会の支配下となりました。

 

西暦1489~1571年 ヴェネツィア時代
1489年からはヴェネツィア共和国の支配下となりました。
オスマン-ヴェネツィア戦争(1570年~1573)後、1571年にオスマン帝国がヴェネツィアからキプロスを奪いました。

 

西暦1571~1878年 オスマン時代
キプロスはオスマン帝国の支配下となりました。
 
ニコシアが捕獲され2万人以上の人々が殺されました。キプロスの住民はみなキリスト教徒であったため、みな大きな迫害を受けました。

 

西暦1878~1960年 英国時代
エジプトの植民地化を進めていたイギリスはこの島の戦略的価値に目をつけ、1878年1878年にキプロス島の統治権を獲得しました。
 
1914年勃発した第一次世界大戦でキプロスは英国の支配下となりトルコはすべての権利を失いました。

 

西暦1960年~ キプロス共和国
第二次世界大戦後1960年にイギリスから独立しました。
 
しかし独立後も今現在に至るまでイギリス基地は島の数か所に残されています。この領域にはキプロス共和国政府の主権は及ばず、イギリス主権の下に置かれているイギリスの海外領土です。

 

1974年 島分断の悲劇
1974年にトルコが軍事介入してキプロスの北部分(島の領土の37%)を占領しました。
 
首都ニコシアは街の中心で半分に分断されており、北半分はトルコ軍占領地となっているため、実質島の南半分のみが、キプロス共和国実効支配地域となっています。
 
侵略による⼈道上、社会的、経済的な影響にもかかわらず、キプロ
スは今⽇も堅実かつ健全な経済的基盤に⽀えられた近代的な社会を維持しています。キプロス共和国は、2004年5⽉にはEUに加盟し、以来、地中海東域におけるEUの灯台としての役割を果たしています。
 
北のトルコ占領部分は、「北キプロス・トルコ共和国」と名乗っており世界で唯一トルコのみが承認する未承認独立国家であるという事情から、貿易相手がトルコのみに限られ、外国からの資本導入も難しいという事情のために、EU加盟しているキプロス共和国に対して、大きな経済格差を起こしています。
北キプロス独自の通貨はなくトルコの通貨を用いています。

 

キプロスは分断国家ということで、危険な紛争地域なのではないかと誤解される方もいますがキプロスはEU加盟国であり、キプロス共和国実効支配地域に関しては至って安全で、経済的にも発展しており治安も極めて良いと言えます。

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